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日本大学卒業の著名人

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日本大学は、数多くの人材を輩出しています。 ・ヤオハンの創業者 和田一夫さん https://ja.wikipedia.org/wiki/和田一夫 ・モスバーガー創業者 櫻田慧(さとし)さん https://ja.wikipedia.org/wiki/櫻田慧 ・三光汽船 河本敏夫さん https://ja.wikipedia.org/wiki/河本敏夫 ・カシオ三兄弟 樫尾和雄さん https://ja.wikipedia.org/wiki/樫尾和雄 ・評論家 赤塚行雄さん https://ja.wikipedia.org/wiki/赤塚行雄 ・佐良直美さん「世界は二人のために」 https://ja.wikipedia.org/wiki/佐良直美

▶相撲の名門としての日本大学

 学生相撲出身力士172人の中の59人が日本大学の相撲部の出身です。 学生相撲出身で、横綱まで登りつめたのは「輪島」だけです。「黄金の左」と言われて左の上手を取ったら強かったですね。 がぶり寄りで強かった関脇の「荒瀬」、相撲界の牛若丸と言われた小結の「舞の海」、怪童と言われた「久島海」、角界きっての好男子「遠藤」などスター選手を輩出しています。 国の名前を背負った大学だけに国技には力を入れています。 【力士出身大学ランキング】 1位 59人 日本大学 2位 17人 近畿大学 3位 12人 東京農業大学 4位 11人 東洋大学 5位 9人 明治大学 5位 9人 中央大学 5位 9人 日本体育大学 8位 7人 拓殖大学 9位 5人 専修大学 9位 5人 早稲田大学 https://university-rank.com/ranking_sumowrestler.htm

▶人力飛行機のパイオニアとしての日本大学

日本大学の業績で人力飛行機を外すわけには行きません。鳥人間コンテストは1977年(昭和52)年に始まっていますが、日本大学では、それよりも14年も前から人力飛行機の研究を行っていました。 日本大学での人力飛行機開発は、1963(昭和38)年に故・木村秀政教授が日本人初の人力飛行機開発を当時の卒業研究としてスタートさせたことに始まります。いち早く実機開発の企画・設計・製作、飛行実験を行う一連の機会を設け、学生たちに提供し続けてきました。 日本大学理工学部船橋キャンパスには、幅30m、全長618mの試験コース(滑走路)があり、自動車、二輪車の走行試験、小型飛行機、人力飛行機の滑走試験、運転者の生理・心理反応特性試験に関する研究が行われています。私は、学生時代、人力飛行機のテスト飛行を見ながら走り回っていました。 鳥人間コンテスト選手権大会の優勝回数は、12回でダントツの1位です。 【優勝回数】 1位 日本大学 12回 2位 東北大学 7回 3位 東京工業大学 5回 【滑空機部門優勝】 第4回     1980年7月19日     101.60m     日大駿河台航空研究会 第6回     1982年8月7日     144.00m     日本大学理工学部航空研究会 第40回     2017年7月29日     440.37m     日本大学生産工学部津田沼航空研究会 第41回     2018年7月28日     446.42m     日本大学生産工学部津田沼航空研究会 【人力プロペラ機ディスタンス部門優勝】 第11回     1987年8月1日     435.56m     日本大学理工学部航空研究会 第14回     1990年8月4日     1,810...

日本大学再生に向けた意見の募集

 日本大学は、日大再生に向けた意見を募集しています。 奮って、ご応募ください。(1月12日まで) https://www.nihon-u.ac.jp/information/2021/12/13043/?fbclid=IwAR0o6zxeKWHatlQdX8wlpfikBrNQI72mepXoM8tXjv8PidaVz57zIJrm_SY   【私の意見】 1)新生日大の決意を入れた新聞広告を掲載する ・在校生、保護者、卒業生への謝罪 ・新生日本大学のイメージ ・改革に向けての施策 ・コンプライアンスポリシー ・日大卒著名人の署名 2)球場に貼られた大学名の広告やテレビCM、ラジオCMを中止する 3)執行部や監督に他大学の卒業生を登用する 4)ここで集まった建設的な意見を公開する

日大フェニックスを作り上げた篠竹幹夫さん

日本大学フェニックスの強さを調べてみると、アメリカンフットボールの日本一を決定する選手権試合「ライスボウル」で、日本大学は、過去5回出場して4回優勝しています。しかも、42回から3連覇を果たしています。出場回数では、関西学院大学が最多ですが優勝は1回です。日大が如何に強かったかが分かります。 1959(昭和34)年に日本大学アメリカンフットボール部監督に就任して、2003(平成15)年に定年により退職するまでの44年間、日大アメリカンフットボール部の黄金時代を築いた篠竹幹夫さんの功績です。 篠竹幹夫さんは、1932(昭和7)年生まれ。終戦のときは最も多感な時期でした。太平洋戦争で日本が負けた時、 「玉音放送」を聞きながらアメリカで最も人気があるスポーツのアメリカンフットボールで、 いつかはアメリカを見返してやろうと心に決め たそうです。   生涯、妻をめとらず、映画を一本も見たことがない、床屋にも行かない、病院にも行かない、まさに一生を日大フェニックスに賭けたような人生だったと「小説日本大学」に書いてありました。こういう信念を持った人が出てきて欲しいですね。 【優勝回数】 1位 日本大学フェニックス 優勝4 出場5 1位 京都大学ギャングスターズ 優勝4 出場6 3位 立命館大学パンサーズ 優勝3 出場8 4位 関西学院大学ファイターズ 優勝1 出場14 38回 1985(昭和60)年 国立競技場 日本大学フェニックス 優勝 42回 1989(平成元)年 国立競技場 日本大学フェニックス 優勝 43回 1990(平成2)年 国立競技場 日本大学フェニックス 優勝 44回 1991(平成3)年 国立競技場 日本大学フェニックス 優勝 71回 2018(平成30)年 東京ドーム 日本大学フェニックス https://ja.wikipedia.org/wiki/ライスボウル https://ricebowl.americanfootball.jp/record.html

古豪日大の箱根駅伝の輝かしい成績

 日本大学は、箱根駅伝でも輝かしい成績を残しています。昭和10年から4連覇を果たしています。ダントツに強かったことが分かります。優勝回数は第三位、出場回数も中央大学に次いで第二位です。  【過去の優勝】 50回    昭和49年     日本大学 44回    昭和43年     日本大学 43回    昭和42年     日本大学 41回    昭和40年     日本大学 34回    昭和33年     日本大学 33回    昭和32年     日本大学 22回    昭和18年     日本大学 21回    昭和15年     日本大学 19回    昭和13年     日本大学 18回    昭和12年     日本大学 17回    昭和11年     日本大学 16回    昭和10年     日本大学 【出場回数】 1     中央大     94 2     日本大     89 3     早稲田大     90 【優勝回数】 1     中央大     14 2     早稲田大     13 3    ...

小説日本大学を読んで感じたこと

 この本は、「スポーツ・ニッポン」紙に1986(昭和61)年2月から492回にわたり連載されたものです。日本大学創立100周年を記念して1989(平成元)年に、角川文庫として刊行されⅠ・Ⅱの2巻から構成されています。作者は、ドキュメンタリー作家の大下英治氏です。 1巻目は、吉田松陰の薫陶をうけた山田顕義は、維新の混乱のなかで日本的人材育成の必要を痛感し、1889(明治22)年日本大学を創立した話から始まって、駿河台の学舎に集った若者たちが紹介されています。 高文試験を突破して警視総監まで上り詰めた秦野章さん、IOCの委員長をつとめた柴田勝治さん、自治大臣をつとめた梶山静六さん、山陽特殊鋼会長の大内俊司さん、五つ子を救った日大板橋病院の萩原忠文医院長、ミサワホーム創業者の三沢千代治さん、日本電気副社長の植之原道行さん、ユニデン会長の藤本秀朗さん、東急エージェンシー社長の前野徹さんという錚々たるOBが登場します。 2巻目は、スポーツや芸術の分野で活躍された人たちが紹介されています。最強の軍団フェニックスに不敗の敢闘精神をふきこんだアメリカンフットボール部の篠竹幹夫さん、ゴルフ部の黄金期を築いた藤木三郎さん、倉本昌弘さん、湯原信光さん、元横綱の輪島大士さんなどのスポーツ界のスターが登場します。また、藝術学部では、映画監督の深作欣二さん、森田芳光さん、写真家の篠山紀信さん、沢渡朔さんなどの話が掲載されています。 ここに出てくる人たちは、全て日本大学の卒業生です。これだけ広い分野で優秀な人材を世に送り出している大学は類を見ないのではないかと思いました。この本を読んで、日本大学の歴史、奥の深さを知ることができました。絶版になっていますが、アマゾンで古本を取り寄せることができますので、ぜひお読みいただきたいと思います。

多彩な人たちが集まった日本大学藝術学部

 「小説日本大学」の下巻には、藝術学部の話が出ています。映画監督の深作欣二さん、森田芳光さん、写真家の篠山紀信さん、沢渡朔さんなどの話が掲載されていました。当時、映画や演劇などの勉強ができる大学は、早稲田の演劇科か日大の藝術学部しかなかったようです。 日藝には、江古田文学という文芸雑誌があって、そこに文学を志す学生が集っていたようです。林真理子さん、よしもとばななさん、群ようこさん、福島正実さん、広瀬正さんなどの著名な小説家を輩出しています。日藝は、日本大学の中でも異彩を放っていますね。

警視総監になられた秦野章さん

「小説日本大学」に出ていた話です。警視総監になられた秦野章さんは、日大の夜間部(日本大学 専門部 政治科)に入って猛勉強をして高等文官試験(高文)に合格しました。後に中曽根内閣の法務大臣を歴任しました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/秦野章 高文の試験は相当に難しく受かれば高級官僚の道が開かれたようです。合格者の出身大学を調べましたら、日大は私学では2位でした。日本大学は、文系でもかなりレベルが高かったことが分かります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/高等文官試験 <1894(明治27)年〜1947(昭和22)年の高文行政科合格者数> 1位  東京帝国大学  5,969人 2位  京都帝国大学  795人 3位  中央大学  444人 4位  日本大学  306人 警視総監になった人はほとんどが東大で、私学でなった人は日本大学の秦野さんだけです。日大の卒業生には、すごい人がいますね。 https://university-rank.com/ranking_keisisoukan.htm <歴代警視総監出身大学> 1位 東京大学 60人 2位 京都大学 8人 3位 東北大学 7人 4位 名古屋大学 4人 5位 熊本大学 3人 5位 岡山大学 3人 7位 日本大学 1人

法務大臣になられた梶山静六さん

 「小説日本大学」に出ていた梶山静六さんの話をご紹介します。梶山さんは、竹下内閣の自治大臣として初入閣。その後も通産大臣、法務大臣、官房長官などを歴任されました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/梶山静六 梶山さんは、陸軍航空士官学校を卒業して、1947(昭和22)年に、戦災復興の力になろうと日本大学の工学部(今の理工学部)の土木工学科に進むのですが、大学を決めるときのエピソードが興味深いです。 「土木工学科のある大学は、官立では、北大、東大、京大、九大。私立では、日大と早稲田大であった。ミリタリズム復活を嫌って士官学校の出身者を官立は敬遠していたため私立を目指した。私立なら日大か早稲田である。私学の中では、土木工学科の創設は日大が最初で伝統を持っており、どこよりも有名であった。早稲田にも土木はあったが、有名なのは建築であった。梶山は、日大に進むことを決めた」 当時から、日本大学の理工学部の土木工学科は名門であったことが分かります。

マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボと日本大学理工学部との共同研究プロジェクト

 小説日本大学(大下英治著)を読み直していましたら、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボと日本大学理工学部との共同研究プロジェクトの話がかなり詳しく出ていました。当時の日大総長の高梨公之氏とMITのネグロポンテ所長が正式調印したと書いてありました。 https://www.kadokawa.co.jp/product/199999872497/ https://www.media.mit.edu/ 日本大学のホームページの沿革を確認しましたら「1987(昭和62)年 5月  マサチューセッツ工科大学(アメリカ)と共同研究プログラム契約に調印」という記事が掲載されていました。世界的な研究機関であるMITとこのような共同研究の契約を取り交わしたのは凄いことだと思います。MITが提携先として日大を選んだ理由は、他校よりも強い情熱があったからだそうです。 http://www.nihon-u.ac.jp/history/outline/ 日大OBの三澤千代治さん(ミサワホーム創業者)や植之原道行さん(NEC副社長)は、契約に際して、将来は日大理工学部を日本のMITにしたいという思いがあったようです。 日本大学理工学部は、この思いを継承した活動を今でも行っています。 https://www.tgp.cst.nihon-u.ac.jp/

水晶時計の基礎を作った三宅康友教授

 学生時代、駿河台の理工学部の校舎の地下に入っていた時計屋さんが「最近の時計は狂わなくなったが、正確な時を刻む水晶時計の基礎を作ったのは日大の三宅康友教授だ」と誇らしげに話されていたことを覚えています。今から40年以上前のことです。 この話を裏付ける様な内容が、「電子工学科のルーツを求めて」という学術講演会予稿集に掲載されていました。 https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/62/pdf/M-10.pdf この予稿集で紹介されている三宅教授の恩師にあたる高木昇教授は、東大を卒業されて東工大から日大の工学部(現在の理工学部)に移籍されたのですが、その時の日大生について、他の文献でこんな感想を述べられています。 「日大の学生は、東大の学生とは違った特徴を持っていた。特に弱電志望者の殆どがアマチュア無線の経験者で、これに凝りすぎて官学に入れなかったようである。従って無線送受信機の実際的な知識では、その頃の私は、足元にも及ばなかった」 私も、日大の理工学部に入った時に同じことを感じました。まさに我が意を得たりでした。日大は、技術や機械いじりが好きで、専門分野に秀でた尖った学生を当時から受け入れていたのだと思います。

フジヤマのトビウオの異名を取った古橋広之進さん

 フジヤマのトビウオの異名を取った古橋広之進さんは、ノーベル賞の湯川秀樹さんと共に戦後の日本の復興の精神的な支柱になった偉人として有名です。日本大学法文学部(現在は法学部)政治経済学科のご卒業です。 古橋さんは、学徒勤労動員の工場で旋盤に左手の中指を挟まれて第一関節から先を切断していたそうです。一時は追い詰められてドン底に落ち込んだそうですが、それを強い精神力で乗り越えて世界一になったそうです。 このエピソードを知って、あらためて古橋さんの偉大さを痛感しました。日大には、このような立派な先輩がいるんですね。 https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic_athlete/09.html?fbclid=IwAR1Uq5wUj_uKBlfmVEAoSTRn93ZELmdfebFixeFNgpU3mqIq_Y6nzFsgpBk https://ja.wikipedia.org/wiki/古橋廣之進 今回も、何十年も前の話ですが、懇意にしていただいていたお客様と雑談しているときに出身大学を聞かれました。「日本大学です」と告げると、日大には苦学して困難を乗り越えて立派に活躍した人がいると話されました。「フジヤマのトビウオ」という異名をとった古橋廣之進さんのことでした。 中学の頃、機械に挟まれて中指を失ったにも関わらず克服して世界的なスイマーになった話が日本オリンピック委員会のホームページのトップに紹介されていました。 https://www.joc.or.jp/column/athleteinterview/legend/01furuhashi/html/index.html 重い病気を短期間で克服してオリンピックに出るまでに復活を遂げた池江璃花子さんのことを彷彿とさせる話でした。 私もそうですが日大の同窓生には、若い頃に挫折を味わった人が多いと思います。その分、他の大学の卒業生に比べて、困難を克服することができるバネの力(レジリエンス)は強いのではないかと思います。

ミサワホームの創業者の三澤千代治さん

 ミサワホームの創業者の三澤千代治さんのエピソードをご紹介します。1960年に、日本大学理工学部建築学科をご卒業され、ミサワホームを設立。当時、33歳という最年少の上場会社社長として話題になりました。 「古くて正しいことを新しい方法でやる」が持論。住まいは文明50対文化50がちょうど良い。先進技術の文明だけではなく、人間が生きていくうえで必要な文化がないとダメ。住宅づくりは、人間とは何かを探求していくことに他ならない。 便利なだけでなく、人を幸福にしなければ意味がない。良いことを言われていますね。尊敬します。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/三澤千代治 https://www.sankeibiz.jp/smp/econome/news/181027/ecf1810270500001-s1.htm

感動の写真家、土門拳さん

 写真家としてあまりにも有名な土門拳さんですが、日大の藝術学部写真学科のご出身だと思いこんでいましたが、日本大学専門部法科のご出身だったのですね。 世の食通が通うことで有名な”てんぷら近藤”の店主の話が載っている記事がありました。土門さんは、ある時、色紙に味という字を書かれたそうです。口が小さくて未が大きいアンバランスな字だったそうです。理由を聴くとこのように言われたそうです。 「味というのは口に未来と書く。料理というのはおいしいだけではダメ。未来へと繋がる感動がないと」  土門さんの写真を拝見すると哲学的なものを感じていました。この逸話を知り、物事を深く考えていた人で、それが写真に現れていたのだと思いました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/土門拳 https://foodion.net/interview/kondofumio?lang=ja

天才と言われた設計者の寺垣武さん

寺垣武さんをご存知でしょうか?開発されたオーディオ機器は、寺垣プレーヤー、寺垣スピーカーと呼ばれています。日本大学専門部工科を中退された方です。私は、何度かご自宅にお邪魔して聴かせていただきましたが、美空ひばりの”悲しい酒”は、そこで本人が歌っているような臨場感でした。 寺垣武さんは、天才発明家、少年エジソンと言われていました。 http://www.teragaki-labo.co.jp/tofficial/profile.html

アドバンテスト(旧・タケダ理研)の創業者の武田郁夫さん

 アドバンテスト(旧・タケダ理研)の創業者の武田郁夫さんが、日大理工学部(旧・工学部)のご出身であることは、あまり知られていません。 戦後の日本のエレクトロニクス業界を牽引した功労者です。科学技術の発展には欠かせない測定器という分野に注目して自ら事業を起こされました。学生時代に駿河台の校舎で講演をお聴きしました。確かAD変換の原理のようなお話だったと記憶しています。 2001年4月に財団法人 武田計測先端知財団を設立して計測器業界の技術の向上に貢献しました。 http://takeda-foundation.jp/aboutus2/index.html 【武田郁夫さんについて】 http://bohyo.blog84.fc2.com/blog-entry-4694.html https://www.advantest.com/ja/about/history.html https://the-shashi.com/tse/6857/

YS11の設計者の日大理工学部長 木村秀政さん

 国産旅客機のYS11が羽田から茨城に移されるようですね。このYS11の基本構想を作ったのが、日大理工学部の教授だった木村秀政さんです。 私が在学中は、理工学部長でした。人力飛行機のプロジェクトを始めた人でもあり、日大の大空、宇宙への夢の礎を作った人ですね。 学生の時はこんなに偉い方だとは知りませんでした。 https://ja.wikipedia.org/wiki/木村秀政

理想科学工業の創業者の羽山 昇さん

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 みなさんも年賀状作りに「プリントゴッコ」使われたことがあると思いますが、このメーカの理想科学工業の創業者の羽山 昇さんは、日大の大先輩なんですね。 「リソグラフ」も理想科学工業の製品です。 今は、息子さんが社長のようです。一枚一枚刷っていた頃が懐かしいです。 https://www.riso.co.jp/info/founder/pdf/history.pdf https://www.asahi.com/articles/ASMDK7SKKMDKUTFL010.html...  

日本大学興隆秘史

 箱根神社に親鸞聖人の銅像があります。昭和39年に日本大学教授で全国教授連盟理事長であった、小松雄道氏が中心となって建立したものだそうです。太平洋戦争の戦没学生の供養のために建てられたもので立派なものでした。小松雄道氏は、「日本大学興隆秘史」という本を書かれているようです。読んでみたいです。 http://www.ji-n.net/sanpo/spot/pdf/kanagawa/ka023.pdf http://hp.brs.nihon-u.ac.jp/~takuyu/takuyu/tuo_zhi_xue_kenoayumi.html